2020年11月05日

「空白の7年」の重み?

わずか5年間ではあるが、かつて航空機メーカーに勤務していた。
航空機の製造は官需が主で、当時は民間航空機の扱い高は2割くらいだったと思う。
日本の航空機メーカーはようやくボーイング社のB767等の分担生産会社から脱皮し、開発から販売までリスクも負担しながら参画するパートナー企業へと飛躍しようとしている段階だった。
「日の丸ジェット機の実現」は当時から業界そして国の悲願であり、その気運も高まっていた。

民間旅客機の開発という話になると、必ず出てくるのが「空白の7年」というキーワードだ。
昭和20年(1945年)8月の終戦から昭和27年(1952年)までの7年間、日本は航空機の生産を禁止された。この期間が「空白の7年」である。
この間、世界の航空機開発はプロペラ機からジェット機へと向かい、高速化に向けた競争が繰り広げられていた一方、日本では昭和34年(1959年)にようやく国産初の民間旅客機「YS-11」の開発が決定され、同37年(1962年)に初飛行、同48年(1973年)までの11年間に182機が生産された。
「空白の7年」の後、ようやく純民間旅客機を開発できた意味は非常に大きかったが、YS-11はプロペラ機。ジェット機には手が届いていなかった。

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私が働いていた職場では文献や資料を読む機会が多く、「空白の7年」というこの呪文のようなキーワードに何度遭遇したことか知れない。
私がその世界に入ったのは昭和60年(1985年)なので、その時点ですでに「空白の7年」が明けてから33年もの時間が経過しており、「もう33年も経っているのに、未だにその7年間を取り戻せないのか?」などと訝ったものである。

当時の日本はバブルの真っただ中。日米貿易摩擦が課題となるほど技術立国を背景にした輸出超過が定着していた。
そんな状況下で、何ゆえに航空機だけは「空白の7年」の呪縛から逃れられないのか、甚だ疑問に思っていた。

その後私は航空機メーカーから離れることになったが、そう遠くない将来に「日の丸ジェット機」が誕生し、世界の空を飛び回ることだろうと期待し続けていた。
待てど暮らせどその気配すらない時期が続いた後、経済産業省が国産小型航空機の開発提案を各メーカーに要請したと聞いた時には本当に嬉しかった。平成14年(2002年)のことであり、「空白の7年」が明けてちょうど50年が経っていた。

その後、この航空機開発プロジェクトはM社が担当することとなり、MRJという名称で70席級民間ジェット旅客機の開発がスタートした。
わくわくした。本当に。
M社は私が勤務した会社のライバル企業(といっても相手は業界1位の王者だが)だったが、ようやく「空白の7年」の呪縛が解け、世界の空を日の丸ジェットが飛ぶ日が来るのだと思うと胸躍った。

ところが・・
その後MRJプロジェクトは初飛行にまでは漕ぎつけたものの、何度も壁にぶつかり、度重なる納期延長を経て、ついに「空白の7年」から68年が経過した今年10月、プロジェクトの凍結が発表された。

残念すぎて言葉もない。
新製ジェット旅客機を仕上げ、飛ばし、型式証明を取得してエアラインに収めることがどれほど大変なことなのか、詳しいことはわからない。
しかし、航空機製造再開から70年近くも経っているのに、未だにこの国は旅客機を作れないのか思うと悲しくなる。
先日読んだ記事の中に、「空白の7年」という5文字を見つけ、愕然とした。
まだこの呪いが解けないのか・・と。

私がその業界にいたころ、「日の丸ジェットは国の悲願だ」と熱く語っていたのは50代のオッサンたち、根っからの飛行機野郎たちだった。
そこから30年が経ち、私自身がオッサンになっているのに、未だに空白の7年なのか・・
M社にはここで諦めてほしくない。
凍結は仕方ないが、決して諦めることなく、1機で良いからエアラインの定期路線にこの飛行機を投入してほしい。
私が生きている間に、ぜひ。
posted by PI社長 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記